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はじめまして。

 

本 長永

本 長永(もと・ちょうえい)大阪府出身

 

本名:本 吉永(もと・よしなが)

美容研究全国長永会会長

MOTO代表

日本ヘアーデザイン協会会員

西日本ヘアメイクカレッジ特別講師

 

 

はじめまして!長永会会長の本 長永です。私はアップが大の苦手で数々の失敗をサロンで行いました。その結果、お客様を数々不幸にして来ました。今までアップばかりをやって来たわけでもなくカットも人一倍やって来たつもりですが、いつからか、アップが得意技になり、人からも言わるようになりました。やはり、自分では気づかなかっただけで、アップが好きで、ロングの髪が好きなのでしょう。アップは非常に奥が深く、その面白さを分かって頂きたくて、長永会を発足し、講習を通じてアップの布教活動?を行っています。

どうか皆さん!作り上げる喜びをアップを通じて分かって頂けたらと、切に願っておりますので、私と一緒にアップの虜になりませんか?講習会場でお待ちしています!

 

                            本 長永

 

とほほな私の美容人生を語る〜涙なくして語れない(笑)

不器用な私がたどり着いたもの、めぐり会った人とは?

 

2000年長永会を発足しました。


(本名)本 吉永(もと・よしなが)から会名称であります長永を美容界の雅号としています。

 

 長永?長永会?なんと古めかしい名前・・・と思われると思います。実は信竜会から独立します時に母方がお寺さんである事情で、このような坊さん臭い名と会名称を付けて頂きました。『本』という珍しい名字もあって、本 長永などと言う、大層な美容名で活動しています。

 

 私は、実家が小さなヘアーサロンを経営しており、その中で育ってきました。18歳の時、大学受験に失敗し、また運悪く、母親が病気で倒れ、自分の夢を諦めて実家を継がなければならない状況に追い込まれました。そんな状況に苦悶し、投げやりになり自暴自棄に陥った状態で美容学校に通う事になったのです。

 

 私はとにかく不器用で、当時、美容学校の先生からも、

「もう止めたほうがいい・・・」

と言われ学校をくびになりかけた事もしばしばで、自暴自棄をよけいに深める事になったのですが…       

 それでも24〜5歳の頃にはそこそこカットは出来るようになっていました。当時、カット&ブローが全盛期で、アップ、セットなんて古いだけでなく、もう、いらないと言う風潮でした。でも私には、20歳位から1つの思いがあったのです。

 当時、私の周りの業界の有力者の2代目が、どんどん名前が出て上がって行く現実を尻目に、


「どうせ僕がいくら頑張ったって、業界の有力者を両親に持つわけでもなく、コネもなく、店も大きくもなく、芽が出るはずもないじゃないか!自分の夢を諦めてまで継いでも何の意味があるんだ!」


とヤル気も失せていた時、ある事に気づいたのです。業界の偉い人ではなく、実際に、ファッションの流行を作る人間になりたい!その時、雑誌を見ていて、俄然、注目したのは、『ヘアー&メイク』と言う仕事でした。

 

「これだ!」と心の中で叫んでいました。

 

 まだ『ヘアー&メイク』と言う言葉がメジャーではなかった時で、何とか親を説得し、雑誌アンアンで見た大阪で開校して間もない『シュウ・ウエムラ・メイクアップスクール』に通い始めたのです。

 ヘアーの方はアップ・セットが出来ないとだめだと思い、美容学校を卒業(なんとか?)してから専科に通い始めその中のセット科で勉強していました。相変わらず下手でしたが・・・

 そして1年位たったころ生徒は私1人になっていました。


美容学校の先生まで、「本君、なぜ、セットなんて古臭い物、やっているの?」と尋ねる始末で、「カット!カット!」と言う人達を尻目に1人やっていたのです。

 「でも肝心のアップをなんとかしないと」と思っていた時、美容学校の先生の紹介で、5歳年上のOさんと知り合いました。

 

 Oさんは丁度、店を開店したところで、ある日、店に遊びに行って、自分の夢を話す内に、

「アップを勉強したいんだけれど・・・」

と言うと、その人は店の奥から1冊の本を僕に見せてくれたのです。

 

『信竜淳二の新日本髪』と題された、その本を開いて、息を呑みました・・・


自分の中で描いていた『完璧』とは、これだ!と思い、目から鱗が3枚は落ちました。
そして何度も見ている内に、発泡スチロールが、髪の中に入っているに違いない!と真剣に思いました。
写真を見てみると、黒いサングラスをかけた怖そうな人だし、技術も完璧すぎて、とても僕にはついて行けそうにないなぁと思い、ついには、「この人だけには、習うのはやめよう!」と心に誓ったのが、

 

信竜淳二(のぶりゅう・じゅんじ)先生と私との出会いでした。

 

その2年後、この先生の門を叩く事になろうとは・・・誰が予想したでしょう!

先生は当時、サロンは引退されて、直接習うには、信竜会に入るしかなかったのですが、ここに

 

『最も出来の悪い弟子』が信竜会に誕生したのです…

 

 来る日も、来る日も、まともなスタイルが出来ず、信竜会で先生に教わって、まともに完成した事が、ただの1度もないまま月日は過ぎて行きました。
何とか作って先生に持って行きますと「場末の女将が寝て起きたのか?」と半ば呆れ顔で言われるのが普通になっていました。

 それでも、先生曰く『変な物』を作り続け、2年が過ぎようとしていた時、講師試験を受ける事となり、信竜会全国講師会(講師間では夏季大学講座と呼んでましたが)に初参加し、コンテストで、『変な物』を作って

 

なんと金賞入選を果たしたのです!

 

 今まで賞なんか無縁だった私が、初参加で認められた事は、飛び上がるほど、うれしい事でした。『帽子』をモチーフにした作品でしたが、今まで信竜会になかった作風を、荒削りだけども、評価して頂いたとの事でした。

 それから私の『変な物』は拍車がかかり3年後の大会では

 

これまた金賞第一席としんびよう賞のダブル受賞をしてしまったのです!

これには私も驚き思わず、頬をつねって夢ではないか確かめました。

 

この時の作品が昆虫の『せみ』をモチーフにした物だったため、東京の先生方にもせみの人と呼ばれる位大変な評価を受けました。

 

「俺は全国を回っているが、お前みたいに変な物を作る奴は見た事がない!お前の頭の中はいったいどうなってるんだ…そんなヘアスタイルで見合いに行けるのか?!」

 

と先生に言われても妙にうれしかったのです。

 内心「下手もここまで来れば市民権を得たな!シメシメ」なんて思っていましたから・・・
でも、事あるごとに「お前は、基本をもっとやれ!基本がなってない!」と言われ続けていたのも、根本的には下手なままだったからなのです。

 

 しかしそのツケは先生亡き後に行われた最後の全国講師会&講師試験でやって来ました。私は創作展示作品のコンクール(この時は展示作品のみだったのです)準優勝したにもかかわらず、幹部講師の試験に落ちたのです。その後の追試で温情で合格を頂く無様な結果でした。

 平成7年1月13日、神戸の震災に重なるように先生の訃報を受けた時はショックで、織田信長が本能寺で亡くなったような感じでした。私の心の穴があまりにも大きかったのです。

幹部講師試験の後、私は『変な物』を封印し、真剣に先生から言われていた基本を勉強し始めたのです。来る日も来る日も、あんなに真剣に先生の本を読んだ事がない位に・・・基本のスタイルを作っては潰し、作っては潰し、納得いくまでやり続けました。

 

 その後、紆余曲折あり、先生から受けた恩を返すべく、遺族が会を閉じるまでの3年間、東京、横浜、大阪の会場を行き来し、先生からいつも怒られていた最も出来の悪い弟子の私が、

 

最後まで信竜会の講習をさせて頂く事になったのです。東京、大阪の会場はそのまま、私の会として独立し現在に至っています。

 

 いつからか『ヘアー&メイク』の夢は方向転換し、私が最もする気のなかった、またしたくなかった会という団体運営をしている自分が不思議でなりません。

 

 信竜先生には大勢の弟子がおられ現在も各地域、各方面で活躍されており、私もその1人に過ぎませんが、生前、最後の弟子の1人になれた事に誇りを持っています。

 

 現在、私の会で、私が信竜先生の話をする事は、ほとんど、ありません。ですが、私の精神の中に『信竜イズム』が脈々と流れて生きています。これからは、未熟な私が、信竜先生とはまた違う私自身の世界を確立し、『本イズム』を脈々と流せるよう頑張って行きたいと思います。

 

 

私の美容歴です〜略歴、賞歴の紹介を致します

 

  • 大阪市内1店舗を経て、シュウウエムラメイクアップスクール卒業、(現)萩原プロフェッショナルトレーニングスクール修了後、ロンドンのビダル・サッスーンスクールへ留学
  • その間、’87より(故)信竜淳二氏に師事。アップの面白さに目覚める。’99より信竜会閉会まで幹部講師&理事長を兼任し講習に飛び回った。
  • 「さらさ」「美容と婚礼」「ヘアーと帯結び」「ミセスのアップ」(美容の友社刊)「ビューさらさ」「新ヘアと帯結び」(美容総合出版)に作品を掲載。
  • 現在MOTO代表、美容研究全国長永会会長、NHDK会員
  • (賞歴)
  • ’89信竜会全国大会金賞入選
  • ’90萩原宗カットコンテスト10位
  • ’91萩原宗カットコンテスト4位
  • ’92信竜会全国大会金賞第1席、同しんびよう賞、萩原宗カットコンテスト3位
  • ’96信竜会全国大会創作展示作品 準優勝

 

 

その後を振り返って…悔しい!嬉しい!出来事

最後の信竜会を見送り、そこからの歩みで見て来た事

 

正直、今日までの私の美容人生で、信竜会は、非常に大きなウエイトを占める存在であった事は確かです。

 

入会した当初の目的とは段々違ってはきましたが、信竜先生にうまく乗せられて、アップの上っ面ではなく、深く、根底から積み重ねて考えていく事を教えて頂いたと思います。

 信竜会に入会した時は、アップの会ですから仕方ないのですが、男性が少なく、私より年上の女性が大半で、しかも私が一番の若手でした。

 

 当時の私は箸にも棒にもかからない状態でしたので、当時の私を知る人にとっては、『いつもヘラヘラしている子』という印象しかないと思います。

 

 そんな女性の集団の中では、そうするしかなかったかな・・・と、今考えると思います。

 当時の信竜会は完全な、信竜先生をトップとするトップダウン形式の会で、(大阪においては)あまり他の会と親交のある方が少なく、秘密結社のようなところがありました。

 噂には聞くけど、どこにあるかわからない、探し回ってやっとたどり着く、知る人ぞ知る信竜会だったのです。先生自身も孤高の人で、協会など一切関与しない、我が道を行くタイプですから、自然とそうなったのでしょう。

 

 信竜先生は今日流行の実業家然とした美容師ではなく、今はない、間違いなく芸術家、マイスターな方でしたから、事業には興味がなく、『師匠』と呼ぶに相応しい『人』そのものが、好きな方でした。『人』と接したり、話したり、その『人』が育ったりするのを見るのが、人一倍好きな方であったと思います。たぶん、誰よりも『さみしがり屋』だったのでしょう。

 先生亡き後、1年の間に全国に200人以上いた講師は急速に細胞分裂をし始め、仕方のない事ですが、殆ど、講師はいなくなってしまったのです。遺族の要請で、私を含む3人で会の建て直しを図る事となり、まず、大阪から私のやり方で講習をし始めました。

 

 意に反してこれが好評で、私も驚き、1日2回の講習を月2回もするはめになってしまったのです。
当時、だれも講師がいなくなった東京で遺族から、「どうしても講習をして欲しい」と要請を受けました。
これは私も最初断りました。「大阪人の僕が東京で受け入れられるのか?」と言う不安が払拭できないまま、押し切られる形で講習を始める事になったのです。

 東京では、元信竜会の講師の先生方が独立して、講習活動を行っておられましたから、大阪もんの私としては、相当なプレッシャーだったのです。

 

 案の定、新規募集のはがきに対して、『受け取り拒否』とマジックで大きく書かれた返送はがき・・・

「送ってくるな!」という電話までかかってきたのです。

【独立して長永会になった今でも残念ながら、東京では数枚のはがきがあります。(涙)たぶん、大阪のわけのわからない奴が何送って来ているんだ!という感じなんでしょうね・・・(涙)】

ですが、なんと講習生は、想像を超える程、来てくれたのです!

 

だけど、大阪とは違ってました。体を斜めにして、腕組みをして見る人の多いこと・・・

 私には、『大阪から来た奴がどんな風に教えるの?力量はどんなの?』と無言で言っていると感じたのです。時間が経つにつれ、腕組みが1人解け・・・2人解け・・・

最後は全員が笑顔に変わっていたのです・・・

 

 初めての講習が終わる時期には、私の大阪弁は何の違和感もなく受けいられ、中には大阪弁のアクセントのうつった人まで出てきたくらいでした。

 そして、ついに、大阪と同じく、1日2回の講習を、月2回もする事になり、さらに、横浜でも月1回する多忙さでした。1日2回ですから年間120回以上の講習を3年間もやったんです。

 その頑張りと、講習会をまとめて行く必要から、最後の1年間は、遺族から理事長などというあまり書きたくない肩書き(事実だから仕方ありませんが・・・)を頂きましたが、さすがに体はボロボロになり、体調を崩してしまいました。

 

 そんな折、遺族が事情で信竜会の活動を停止したいと言う申し出があり、私の信竜会での活動は終止符を向かえたのです。

 

 ですが、私には誰よりも、信竜会を最後までやり遂げ、そして見送った自負があります!!

それも、信竜先生への恩を返したいと言う一念であったと思います。

その後すぐ東京、大阪の講習生に推されて独立し、長永会を立ち上げる事になったのです。

 大阪の人はもちろんですが、大阪もんの私を誰よりも東京の人が支えてくれ、力になってくれた事はうれしく、誇りに思っています。

まだまだ信竜会の足元にも及びませんが、私のペースで長永会を大きく育てて行きたいと願っています。(合掌)